昭和40年11月1日  朝の御理解



 人ひとり助かればひとりの神、人ひとり助かれば一人の神と仰る。そういう人一人助かるということは、どういうような助かり方をしたら、一人の神になることができるだろうか。ひとつ皆さん、「此の方のことを生神生神というけれども、みんなもこのようなおかげが受けられる」と。そういうふうに教祖の神様はご自身がおかげをお受けになられて、そして、それを私共に伝えて下さる、教えておって下さる、どうぞ信心しておかげを受けてくれよと仰ることは、どうぞ、その生神の、おー、おかげを、おー、受けてくれと、そういうようなことだと思うんですね。
 ですから、人一人助かれば一人の神と仰るのでございますから、その人一人助かるというような助かりとはどういうような助かりなのかということを、ひとつ、考えてみなければいけません、思うてみなければいけない。そして、自分もそういう助かり方にならなければいけないと。
 私は朝晩、思うのでございますけれど、ご神前に心ゆくまで、ゆくまではいかんにいたしましても、御祈念をさして頂いて、何というても、私自身がこうやっておかげを受けておるということ。私だけではない、私一家がこうやっておかげを受けておるということ。私一家だけではない、私の信心にゆかりをもって下さる方達がだんだん、助かりになっておいでになるということ。
 そういうようなことを思いますと、そのことのお礼が、もう限り無しに申さなければおられません。第一自分の助かっておるということが有り難い。自分がおかげを受けておるということが有り難い、ね。
 その自分の助かっておる有り難いというその有り難いというものがだんだん本当のものになってくる。本当にこういう助かり方を皆さんがなさったならば、世の中は本当に有り難いことになるだろう、有り難い世の中になるだろうと、ひとりひとりの上にも、社会も明るくなるだろう、清まるだろう。そして、皆が楽になられるだろうと、ね。
 難儀から開放されることができるだろうと。そういうような、例えば、あぁ、言葉で言うなら、そういうような意味合いにおいて私が助かっておる。ですからその助かりをです、ね、また、誰かにも聞いてもらわなければおられないのであり、誰にもお導きしなければおられないのであるという、そういう難儀なまでに、自分の助かっておる有り難さというものがです、その切実さが、私は神様に通うており、そして神様から事新しい、例えば人間の知恵、力でございますから、私共のように、いー、学問というても、おー、小学校出とる程度の、おぉ、頭でです、そう毎日毎日、お話をし続けるということはできんのだけれども、私が助かっておるということ、その喜びがです、人にも伝えられていくということ。
 こういう助かり方を、ここにもなさったら、こういう家族もできるだろう、こういうおかげも受けられていくだろう、難儀から開放されていくであろう、いや難儀に直面をいたしましても、過去をこういうふうにやっていけば問題ではないのであるけれども、それが問題になって、問題が問題を生んで、難儀なことになっておるのだと、ね、自分が助かっておるということ、どうでしょうか。
 私はそう思うです、とても話さなければおられない。というても、あの人は、もう、話さっしゃるといつも同じ事ばっかり、ね、もう同じことばかりです。だったら、やっぱり皆がその、また、あぁ、まあ私共もやっぱそれに、いー、もれないようなところもございますけれどもです、と言うて、私自身が何とうなしに、その、毎日違った感じでお話さして頂いておる、お話さして頂いておる私自身もだから、またおかげを頂いておる。
 これは私が助かっておるということ、ね、私が助かっておるということを、人にも助かってもらいたい。助かれたらどんなに楽になられるであろうかと。そういう難儀をもっておいでるのですか、そういう難儀はこういう信心さしてもらえ、かえ、その、難儀から離れることができるのだと、その難儀を克服していくことができるのだと。その難儀のおかげでこういうおかげを頂きよるのだということをです、私自身が頂いておる、その頂いておることをです、人に聞いてもらわなければおられない。
 そのおられない、その思いがこうして、えー、今日は何を話さして頂こうかと、おぉ、思うんですけれども、(工程の点?)ならまとまって私の頭の中に、ね、お話の筋があるわけじゃないのだけれど、まあ何とうなしに、いー、神様から、いろいろヒントを頂いたり、お話さして頂きながら、自分ながらその話を頂いたりするような、おかげを頂けれるのだとこう思う。
 だから、問題は銘々が助からなければいけない。本当に助からなければいけない。例えて言うならば、特別難儀なおかげを頂いた、病気なら病気のおかげを受けた、ね、それだけでもです、(ぼうにもあわん、あなたがする?)病気なら私は椛目にお参りしておかげを受けたから、あなたもお参りなさいと言うて、お導きさしてもらう、お話さしてもらう。
 ところがこの、喜びというものはです、言うならばだんだん、薄う浅うなっていくのである。おかげを受けた時の喜びというものはだんだん薄うなっていくのである、ね。それからもう日々がです、教えによって助けられていくところの生活にならせて頂いたらです、こういう生き方があるのに、ね、こういう有り難い道があるのにと、自分がそれを実感したらです、その有り難い道を人に伝えなければおられない。
 皆さんがもしそれが伝えなければおられないというものがです、まだないならばです、まだ皆さんは本当に助かっておられんのだということ。でなかったら皆さんはもう本当に冷酷非道な人だということになる、ね、自分だけ助かったらそれで良かごたる、ね。この助かりを人に伝えなければおられないということ、ね。
 今日、私善導寺の、お月次祭におかげを頂きました。1日は信徒共励会で、いつも、おぉ、渕上先生やら、岸先生方のお話を頂きます。先日、んー、花畑の教会の記念祭に、鹿児島の行徳先生がお見えられたそうです。その先生のお話になった、あぁ、中の一番、感銘のかかった話を、おぉ、皆さんに聞いてもらうというて、うー、それで渕上先生、お話になりました。やっぱりその、生き生きしたおかげを受けておられるということを感じますですね。まあだ2年余りにしかなられないご信者さんの話で。
 ご自身が縁につかれて子供が一人できられた。そして、離縁になられた。その後にまた、あれを別の所から奥さんが見えられて、そして子供さんができられてから、また出られた。その後にまた、その一番初めの奥さんが入って来られた。また子供さんができられた。子供さんが3人になるなかに、上と下は自分の子、真ん中の子は2番目の子供というような複雑な家庭らしい、ね。
 ですから、そういう複雑な家庭の中にあってです、いよいよ本当の助かりを求めて、ご神縁を頂かれた。2年の余り、本当に自分の真実の助かりというものをですね、求め、ということになると、真実の信心を求めなければならんことになってくるんです、ね。
 例えば病気が治るとか、どうぞ、病気がなおりますようにというだけではなくてです、そういうややこしい人間関係の中にあってです、ね、これは問題を自分自身が助からなければならないということが分かられてきた。ですからもう、本気で信心が分からして頂かねばならんという信心が、あぁ、できられたということです。入院後には30キロ余りのブランクだそうですが、もうそのほとんどがお導きを頂いて、鹿児島教会へお参りするようになったお話をしておられました、ね。
 「お助け婆さん」という話がある。ね。本当に自分自身が助かっておる、自分自身が助かっておったらです、自分の周囲を見回したらです、たったそのくらいなことが問題、そのくらいなことが原因で家庭不和のもとになったり、そのくらいな難儀を本当に難儀と言うて、えー、あくせくとしておられる姿を見ただけでもです、やはりお話をしに行かなければおられんのであり、お導きをしなければおられんのである。自分の助かりが人を助けんならん、自分が助からんからというのではなくてです、自分自身の助かりをです、人へ伝えなければおられないという助かりであって、私は本当の助かりでなかろうかとこう思うのです、どうでしょうか、皆さん、ね。何とうなしに助かっておる。というぐらいではです、やはり人に伝える自身がない。
 先ほども、今日は、あの、熊本から佐田さん達が、先日参ってみえたらしいですけど、私は留守だった。その時の( ? )的な話を、ここでなさっておられた。20、んー、私福岡に行っとる時ですから、21日の時だった。丁度私が出た後に参って来た。もうそれこそ、熊本からここまではもう大変その、苦になることができてきた、途中で。まあ先生がおられるなら先生にお取次ぎを頂いてから、おかげを頂いて、頂かせてもらおうと思ったんだけれどもあいにく先生がおられなかった。それでもお取次ぎっちゃあ有り難いですね。ちょうど久富先生が座っておられた。
 久富先生にそのことをお取次ぎを願われたら、それは心配はいりませんよ、お願いさしてもらいます、心配はいりませんが、と言われたら、本当に心配がなくなった。というのは、こういうことなんです。(職場?)さん達の所を今日は私初めて聞いたんですけれども、バスの通うておる道のり、七分の道を歩かないけん、しかも山道である。女の人ではとても歩けないというような、あぁ、田舎から出て来ておられるらしいんですね。
 いわゆる、大体は(かみかみと?)教会のご信者さんですけれども、おぉ、そこまでいくのに、やはり3日間、2里半とちょっとばかりある、だそうです、ね。そこでもとは信心の稽古をちょっとなさっておられた方達だった、ね、ところがその、7分ばかりの道の所にです、もう何ですか、農家の方達が、あのう、使われる、こう車があるでしょうが、ぶーっと乗って来て、荷物運ぶやつが。小さい道でもこう行くような。あれがその、まあ隣村の方が、その、通り合わせられた。ほいで、その、宮崎さんていう方の、お知り合いだったもんですから、乗せて行ってあげましょうということで、そのバスの停留場まで乗せて行ってもらったのまでは良かった、おかげ頂いてよかったちゅうことだったんだけれど、ね。
 向こう向いてからその、運転手の人、うー、そのお百姓さんにです、そのお金を百円出してから、煙草銭なんかにして下さい、てもういらんちゅうても(さっちもっちむきとうぜにおしこんだ?)。そこへ、お巡りさんが三人立っとるわけっちゅう(笑)、ね、お巡りさんて知らんもんじゃから、ね。ある程度散々しぼられてから、その、こん、ここのあんたどんがいつも、そん、百円ずつぐらいで、この人に(まぜきて?)もらいよるじゃろう。ということでまあ、そのう、いろいろ調べられたり、今夜、あぁ、おやじと二人出て来んのっちゅう、ことになってっきた。ったらそれでもう、気になってならん。
 そして、その、乗せてきた人までも本部に出て来いということになった。もう気の毒で気の毒でたまらんというわけなんですね。もう百円から金ばやったばっかりに、ね、そのためにこの人はいつも、その、おぉ、百円の、おぉ、その、(?)をとってから見せて来よるように、その、おぉ、巡査さんから言われてから、言い訳してもだめだと、とにかく今夜出て来いということになってから、晩に出て行ったっちゅうわけなんですね。そのことが心配でたまらんもんですから、せっかく、お参りさして頂きよってですね、そういうことになってから、そのことをお取次ぎを願われてから、そら心配いりませんがということであったから、まあ先生ああ言うて下さったからと思うて安心して、帰らしてもろうて、主人にそのことを話して、主人と2人、宮崎さんと3人で、警察に呼ばれた通りにやらして頂いたっちゅうわけなんです、ね。
 そしたら、大体、あんただん、どこ行きよったつかということになった。こうして椛目に大変有り難い金光様がござるから、椛目の、椛目の金光様ちゃどこか、久留米なんかずーっと流れてしまう。かば、久留米の向こうまで(?)まい、ちゅうちからその、今度は皆さんが大体どげなことば言わっしゃるかちゅうて、その、言いござっしゃった。そらもう本当に、私共がお参りしだしてから、こげなおかげも頂いた、あげなおかげも頂いた、1時間経ち、2時間経ち、もう夜中になった。ここへ泊まっていってから話してくれっち仰った。本当です、ね。
 それが、そげんごたるもできんで、えー、ちゅうちからほんなら、この11月いっぱいが、あぁ、大体はその、おぉ、暇だと、もう12月になって、お巡りさん忙しい。だから、もう、もう一晩どうでんこうでん、金光様の話ばしてきてくれと言うてやくやく、その、お願い受けて、そげんなれんのも、先生に(ほにんかんがつきましたちゅうてからかえってきます?)っち、それでその、後味が良いということがね、うん、おかげを受けて、ね、本当におかげを受けておるということがそういうふうにして、私はこう、人に伝わっていく。そして、どうでんこうでん、私共が非番になったら、その椛目っちゅうとこに、あんただんも連れて、参ってくれんのっちゅうことになったそう。言うて今日はここでお届けをなさっておられます、ね。
 私はそういうことになっていかなければいけない、それは勿論、うーん、自分が話そうと思うて、話したこともないのだけれどもです、まあそれはひとつの椛目のそういうひれいなんだ、ね。ですからその、椛目のひれいにお互いがです、やはりのらなければいけん。椛目の車に乗っとかなければいけん。便乗しておかなければならない。椛目のひれいに便乗して、私はおかげを受けていかなければいけない。助かっていかなければならない、椛目のほとんどの人がです、おかげ話をしなさいと言やあ、あん時にこげなおかげ頂いた、この時にこういうおかげを受けたというくらいな話は皆さんできるだろうと。
 だからそういう、絶好の機会を得ら、その、おぉ、神様から与えられておればです、皆さんだってお話しになるでしょうね、うん。けども、そういうことばっかしはいつもないのですから、ね、やはり皆さん自身が本当に助からしてもらい、例えば、あの時にああいうおかげを頂いただけではなくて、日々がです、そんな話をしておりましたら、今日、久保山先生が言われるんですよ、本当にそうですもんね、先生が、あのご修行中の時分、善導寺の教会に毎日日参しておられる時分です。もうそれこそ、もう本当にもうあふれるごたるその、何かがですね、いつもこう、有り難いものがこぼれておるような感じだった。ね。
 別に物質的とか金銭的な上にです、商売の上にもおかげを頂いたおったというわけではないけれどもです、言わば、自分のこの信心話を人に聞いておらなければおられないというものがあった。それでいつもあふれておった。これは自分が、なら私自身があの当時、精神的な面において、助かっておったからだと、こう思うのです、ね。
 ところが椛目の場合です、ね。その助かり方というものがいつも同じ(冷えた?)もんですから、皆さんがもう覚えてしもうた、ね、こげんすりゃ助かるということも、手に覚えてしもうたもんじゃから、覚えてしもうたばってん自分のものにはなっておらんのでしょう。それで、助かる方法を、こういうような信心さしてもろうて、こういうおかげを受けなければならんということ。いよいよマンネリになってしまっておるということ。
 今朝の御理解を頂くとです、ね、朝早よ、起こさして頂く、言わば朝の御祈念なんかにお参りさして頂いて、出会い頭におはようございますと、そういうものがなくなっておるんだという、ね。朝の8時頃やら9時頃に起きといてから、おはようございます、そう生き生きと言われんでしょうが、ね。なるほど、生き生きしたものには修行がいるということが分かります、うん。
 そういう修行をです、をいくら心がだんだん、言わば楽な方にと走っておるという傾向はなかろうかとこう思うんです、ね。信心にはその生き生きしたもの、ね、少しは眠いけれども、冷たい水で顔を洗うて、そして、表でさっぱりした空気に触れさして頂いて、奥から来る人に、出会い頭に「おはようございます」と。あの生き生きした「おはようございます」のような内容を持ったところの日々でなからなければならないということ、ね。
 もうぜー、どげなふうにすりゃおかげ頂るよということなしいかんばい。もうそげなことじゃ絶対おかげ頂かれんです。(笑)うん。もう私は椛目のことを思うたら旦那に会いません。ご造営のことを思うたら拝んでんなられん、そげなことじゃ絶対おかげにならんです、ね。それこそ、もう日々の働きの疲れでです、もう床についたら、もう幾人かで御用をしておる、その思い出して頂いて、朝早起きでもさせて頂いて、生き生きした「おはようございます」が言えれる、そういう内容をもってご造営のことが願えるならばです、それはおかげになると思うです。
 第一もう、椛目で御理解を頂く、その、おぉ、楽しみといったようなのが、こうなくなった感じがするですね、皆さん。これはもちろん、私の表現というかね、私の内容にも問題はあることと思う。本当に、もういつ頂いても、先生の話頂きよったら目の覚めるごたる。というようなです、私、信心の内容がないからではありましょうけれどもです、お互いがここんところに、ひとつおかげを頂かなければならない。
 今朝から私、皆さんに申しました。11月という月は、ね、いよいよ、12月と言えば、どうでもこうでも、おかげを受けなければならない月なのである。一月を、いや、一年を締めくくらなければならない月なのである。どういう意味合いにおいてでも、ひとつ、12月はおかげを受けなければならんのである、ね。
 ですから、その12月のおかげの頂けれる月の前に、この11月という月はそのおかげの頂けれるおかげの受けものをつくるための11月で、ひとつありたい。ご造営のことでも進展せんなら進展せんでもよい。進展しないところはです、自分の信心の手元足元を、ひとつ本気で見つめさして頂いて、おかげ頂いていこうじゃないかと。私は今朝からそういう気にならせて頂いたら今朝から言うならそういうその、おぉ、ふうな、やはりこれは問題が中心だなあと思うたんです。
 今日、あぁ、その、御祈念の後に、ある方が福岡から参ってみえられた。ちゅうことはもう(ごじょうし?)ば持つように、こうやってその、祝詞のごたっとばこうやって、ここに入れてから持ってみえられて、何を持って来なさったじゃろうかと思うたところが、もういっちょん参って来んならんですけどもね、先生、私の体を向う一ヶ月、先生にお供えしますって言わっしゃた。こげな大きなお供え頂いてどうするじゃろうかって思うちから私は、どげな( ? )、したらその今までのように、この上司の持っておるどうこう出してからですね、それがお供えだった。
 もう開けらず中見ませんでした。見ませんでしたけれども、★これはまだ私にご神縁を頂いてないけれどもです。口辺に食と、これなんか「喰(しょく)」とこう読むんですね。今日、私さっき申した、あの、熊本の(しょくどうさん?)の、(しょくだ?)というのはこの口、字が書いてあります。口という字を書いて、食べるという字を書いてある。という字をこう頂きましたから、このことを私は御理解頂いておるから、またこの次にお参りされた時にお伝えしましょうと。承知しましたと、あなたが一月、お供えなさるなら、そのお供えを私がほんなら頂ましたよと、お供えしましたと。いうことを言うて、まあ帰られました。
 それから、ずっと帰らして頂いてから、帰られてから私が見せて頂いたら、その「五戒」と書いてあった、ね。あの、キリスト教で十戒ということ、仏教で五戒ということ。五つの戒めと書いてある。そして、これは11月、うー、の1日から31日までは、こうもいたしません、こうも言いません、ああもさしてもらいます、こうもさしてもらいますという五か条が書いてあった。
 はあ、本当にこれは今朝から、私がほんの少しばっかり本気でひとつ、おかげよりも今月、今月という今月はです、そういうおかげのおかげ作り、おかげの受け物作りをとこう思うたら、早速そういう下地があるということ。今日は総代の「たかや?」さんなんかも、うーん、今朝お届けがありました。今朝から私はあるひとつの荒修行を始めておられると。まあ内容は聞きませんけれども、本当にです、やっぱり修行のひとつもせなければ生き生きしたものが生まれてこない、ね。
 今朝からも私が申しました。ね、総代さん、あなた方が毎朝、こうして揃うてお参りになられてから、ご造営のことを御取次ぎを願われる、けれどもあなた方の信心にどれだけの信者がついてくるか。あれだけ総代さん方が一生懸命なんだから、総代さんに右へならえしなければおられないというようなところまで、あなた方の信心内容をひとつ、研究しなければいけませんよと。もちろん、精密に見れば私ということになりますけれども、そこんところをひとつ、お互いにおかげ頂いていきましょうやと言うて、まあお話をしたことです、ね。
 私共の心の中からです、本当に、朝早く目覚ましのおかげを頂いて、ね、そして、出会い頭におはようございますと、おはようございます。あの生き生きしたおはようございますの言えれるような内容をもってです、神様におすがりさして頂く。それはどういうことをかというと自分自信が真実、助かりのことのために、ね、光を求めてからのために、おかげを頂いていかなければならない。
 ★夕べの御理解にですね、ある方の御取次ぎをさして頂いた(?)、ご心眼に頂くのが、その方がね、ある難儀な問題、難儀というても、やっぱりその人には難儀。私には難儀じゃなかったけれど、本人がやっぱり難儀と感じておられるからお願いなさったんです。ところが小さい、その、赤ん坊をおんぶしておられたんですね。ところがその赤ん坊がですね、私、赤ん坊をおんぶしておられるなあとこう思うた。はあ、めぐりの赤ん坊、運命の赤ん坊をおんぶしておられる。ところがそれがですね、いつの間にか私の心眼にね、映ずるのが、ね、赤ちゃんじゃなくて、そのくらいな格好の石であった。しかも、太さは変わらんけれども、ずてーっとなって、いかにも重たさそうにしておるようなご心眼であった。お知らせが。皆さんどういうことだと思うですか、ね。
 お互いが様々な難儀を感じておるということは、やはりめぐりのせいなんですよ、ね。追求すればそれは神愛ということになりましょう。けれども、やはり一番手前なことに感じなければならないことはめぐりの深い私であるということなんです。そのめぐりの赤ん坊、ね、そのめぐりの赤ん坊。
 ですからそのめぐりのおとり払いを頂くためにです、本気で信心は日々の改まりと仰るですから、日々の改まりに本気にならなければいけない。これは改めらして頂きゃあ、自分も楽になるだろう、おかげになるだろうと分かっておってもです、それをいつまでも、なら無駄にしておる。改まらない。それで改まらなかったらその難儀を一生負い続けなければならない。それが、赤ちゃんが育たない、ね、石になってしもうてしまう。難儀がもう石になってしまう。一生、重たい、ね。
 私共、日々の改まりということによってです、改まらして頂くことに一生懸命ならして頂いたらです、この赤ん坊が育つ。改まるということ、磨くということに、の過程を頂きながらこの赤ん坊が大きゅうなってくる。そしてそれがです、15年経ち、20年経ちしていくうちにです、その赤ん坊がその恩を(?)にやる。そん時に私共が本当の助かりということになるわけじゃないでしょうかね。
 だから、そのめぐりの赤ん坊をおんぶしながら、ね、改まろうとしないから、その赤ん坊が育たない、石になってしまう。もう一生追い続けなければならない。一生どころではない、あの世までも追い続けなければならないという苦労はくる。おかげは頂いていってもです、根本的な本当の助かりになってこない、ね。
 椛目の場合はその辺が、私はもう、ある意味で進んでおると思うです、ね。お取次ぎを頂き、こんなおかげを頂きました。お取次ぎを頂き、こういうおかげを頂いたというようなです、ね、おかげでならば、そういう意味でならば皆さんが助かっておられるのだけれども、本当にめぐりのおとり払いをある意味で頂いて、その、めぐりのおかげで、そのめぐりが育って私を見てくれておるというようなおかげになっていない、ね。
 だから、ここんところはひとつ、信心が本当に飛躍しなければいけんというとこるですかね。いわゆる本当の助かりを求めてからの信心、ね、本当の助かりを頂かなければです、人にもやむにやまれん、本当に、もうとにかく毎日、自分のこの助かり具合というものを聞いてもらなければおられない。そこに難儀な人があるならばです、ね。自分が助かっておることを話して、というような親切な心も起こっちゃこない。
 もう(とんとんじゃ?)なか自分どんが助かってあるのだから、(ひとり?)じゃなかでしょう、ね。本当の助かりということをですね、頂かせて頂かなきゃならん、本当の助かりということは、ね、とにかく自分の周囲を見回してみて、難儀な人があまりにも沢山あるということに気付かしてもらい、ああいう難儀から自分が脱却した、ああいう難儀から自分が開放された、自分が助かっておる、自分のような信心をさしてもらいながら、あの人もああいう助かりができなさるのにと思うたら、伝えなければおられないというところまでの助かりをね、ひとつ願わして頂かなければいけないとこう思う。
 今日、(?)に、んー、子供さんが子供の時に、3つの時にやけどをされた。その当時、その、おばあちゃんが天理教の信心をしておられた。それでも神様でおかげ頂くっちゅうてから、一生懸命、そのう、やはり、拝んでもろうたり、お参りされて、されたおかげでですね、おかげ頂いた。ところがその、おー、浮かれておったけども、ちょっとした、まあ転んだか何かで、その、(?)になったところがですね、この(?)がここにひっついてから離れんごとなった。
 してからこちらの働きがです、この(?)がです、この( ? )と繋がるような感じ、格好なんです。もう十分なら、まあこの年頃にならして頂いて、嫁さんどんもらわんならんという時にです、( ? )っち思われちゃならんから、親心としてから、何とかですから(?)、その、おぉ、願いをもって、今日ちょっと祝ったんです。
 私の、本当に椛目の信心の、まあ神髄である、ね。深いところである。そこを私はいっぺん、武蔵野で、昔の話をさして頂いた。私自身の、おぉ、火傷をした。けどもね、椛目でおかげを頂かれるならば、本気で、皆さまひとつ、私の信心を皆さんが、(?)教導頂かれた信心にもうひとつ、椛目で頂いておるところの信心の、これが椛目の先生の信心だというものをひとつ、皆さんが身につけて頂かなければならん。
 それはもうどこまでも成り行きを尊ぶということであり、成り行きを大事にするということであり、その成り行きを大事に尊ばして頂くということが神様を大事にすることであり、神様を尊ばして頂くことなのだから、ね、神棚をお祭りしてあるところの神様は有り難いというて、拝むけれども、ね、さあ、その子供が(?)があると言うたら、どうしてと言うて、言うことをです、こちらには神様にお礼を言いながら、こちらの神様には不平不足を言うておるようなものだと私は思う。
 だから椛目の信心はここんところを大事にしておらにゃいけんのですよ、ね、そして、私が家内との、おぉ、そもそもの話をさして頂いた。私と家内とが一番初めに、その、おぉ、面接したと、私も一目惚れなら家内もまた一目惚れだったらしいんです(笑)。それもこの頃でした、この頃っちゃあ、一年前。(  ?  )。私と一緒に家内が修行だった。椛目が血が入ってきた、ね。そいで母達に、(?)、(?)と思うて、それがちらっと見えた。もうその眺めが見事じゃった。
 そいで私が言うたごと本当に、20ごと(?)に出して頂いたから、ね、その時に私がもっとその、(?)なんかに、よかとこだったなら、もうその時分に、それこそあっちこっちから、それを言うて来る人があったから、そうしとったら現在の椛目は生まれておらんと私は申しました。ただ、私は他の人だったらです、あの修行の時分に着いてききっとらんと、私の信心に、ね。
 私は本当に、言うならば火傷のおかげで家内と、おぉ、まあ結婚のおかげを頂くようになったということ。それが、椛目、私が本当に修行を成就することのできれる元になったということを考えただけでもです、今言ってるものの中には素晴らしい働きを感じるじゃないですか、ね。
 お母さん、成り行きを本当に大事にしなければいけませんよと。そのことを本気で頂かなければいけません、ね。言うならば、行く雲、流れる水であり、ね、自然に起きてくることを本当にそれを私共がです、元気な心で、言うならば本当言うたらそれをです、本当のことがそれが分かったら、神様の働きと分かったら、牛であろうが足であろうが、暑いであろうが寒いであろうがです、それを喜んで、感激して生きられるような万年にならして頂くということにならないけません。
 と言うて、私はあの、「かわいさん?」の話をさして頂いた。「かわいさん?」はこうして、花の、おぉ、言わば、あぁ、いわゆる無人である、ね。このままこの人の、教えていったら、よい女の先生ができるだろうと言うて、先生から(嘱望?)されておる、ような、あぁ、まあだその時分のことの話であった。
 ★夕べ、私、椛目の展覧会があるから、ね、まあ花を生けると言うので、お伺いをした、お願いをした。そしたら、(やり?)の、おぉ、自然のものを切って、神の毛で買うた花ではなくて、(?)にささったものを、まあ生けるようにというお知らせを頂いた。かえって、大橋の、または娘時代ですから、裏の山に登って、ね、丁度今の頃だったでしょう。もう本当に、いー、紅葉した山に登らして頂いて、そのう、おぉ、手ばさみを片一方に持ちながら、山の中に立たして頂いたら、思わず感激がわいてきて、( ? )だったというその人の一言が、それがどうしてじゃろうか、どうしてその感激がわいたかと言うと、ね、(かわしたのもうえじたも?)、自分の信心なら一切のもの。枯れ色であろうが枯葉であろうが、ね、もうあれもこれも材料になる、これも花の材料になると思うたら、感激してから、この場で泣きたいごたる感激だったとこう、言うたことを私は覚えておる、ね。
 天地の親神様が枯葉を作んなさった、枯れ木を作っておられる、ね。そのどれもこれもが生かされるんだ、あれもこれも材料になるんだと思うた時に神様の喜びが伝わってくる、ね。私共がです、様々な難儀なら難儀という中にあって、ある人は、本当にどうしてこんな難儀の中に、と言うておるかと思うと、片一方の人はです、もう神様がこうして私を鍛えて下さるんだ、こうして私に力を与えて下さるんだと、その中に感激するような、心の状態を作っていくことなんだ、信心は。
 そこに神様が感激まします、神様の喜びがこちらへ喜びになって伝わってくるのだと。ね。そういう、私は、おかげを私は、言うならまあ感じるというところにいくかもしれませんけれども、私共の感じる助かりであるとこう思うんです。どげな中にあっても、ね、大声で泣き出したいごたる感激がわいてくるということ。冷たくはある、寒くはある、ね、痛いことと痛いことであるけれども、けれども、その痛い、暑い寒いの中に立たして頂いてです、あれもお役に立つ、これも神様の神愛の現れであると言うて、感激するような、喜びをです、その中に、頂けるようになったらという、そこのところがです、皆さんが十分分かっておるけれども、そこのところをそういうところまでです、ね。
 そういう例えばひとつの難儀の中にあってもです、ね、感激でそれを受けられるような、成仏というものがだんだんかげてくるのではなかろうか、知っておる。椛目の信心の流儀というのが、一切を有り難く受けぬいていくことであることを知っておるけれどもです、自分の手元足元のところを見らずに、(?)な風ができてきて、そこを修行してでも、そこを突破しようというような、勢いが私共の信心になくなっておるじゃなかろうかといったような話をです、久しぶりに、まあ今日、熊本の方に話さして頂いてから、改めて私自身がそれを思うのです、ね。
 椛目の非常時と言うたら、私は今こそ椛目の非常時じゃあなかろうかと、こう思います。言うなら、椛目全体が一気一願、ね、勢をそろえてと言うなら、今こそ、そうではなかろうかとこう思うのです、ね。そういうような信心が、ただ今申しますような内容をもってです、そういう椛目的助かりのことを通してです、銘々の助かり、自分一人ぐずぐずしておっても、自分一人(わごころ?)つきそうなっても、御用はできていくというような、甘い考えではなくて、ね、椛目に50人なら、人がおるならば、始終姿勢おるならば、(しちゅうししん?)しとる、うって一つになってです、ね、そういう真実の助かりを求めて、信心をさして頂いたら、ね、もうちっとましなおかげの受け物ができるのではないだろうか、同時にです、その(しばくのしゅうじ?)にです、助けずにはおかん、助からずにはおかん、というような人たちもできてくるのではなかろうかと。
 自分自身がその、助かる、自分が助かっておるということを、ね、おかげを受けておるということは、まだ考えておるけれども、自分が助かっておるというところまで頂いていないのじゃないだろうか、ね、それが、私、一人の、これは無理して伝えたんじゃつまらん。ね。自分達が本当に助かって、本当に助かっておるならばです、その助かりを隣の人にでも言わんじゃおられないて。
 同じ難儀になってもとい、(くだんじょうしょ?)に話されなきゃおられない。というところまで自分はひとつ助かっていかなければならない。してみると私共の助かりはないということを、ひとつ気付かしてもらって、本当の助かりに向かって、ひとつ、おかげを蒙らしてもらおう、先ほども申しますように、いわゆる12月という月にはどうでもこうでも、一応皆さんがおかげを頂かなければならない月であるから、ね、そのおかげを受けなければならない、月の、おぉ、この11月をです、その時バタバタせんでよいような信心をこの11月にです、さして頂こう。生き生きとし、今までの信心に少し、こう、注射をしたような、私、気持ちで信心さしてもらおう、ね、本当に、朝早う起きさして頂いた時に、おはようと言う、おはようございますという、ああいう内容の、信心をさして頂こう。生き生きしたものが欠けてきておる、いうことをまず分からしてもろうて、おかげ頂いていきたいと、まあ私自身それを思うた。
 今朝からそのためとってもそのことを話したことでございました。皆さんもどうぞ、そういう信心にならして頂くために、これ、一工夫、言わば一修行いるんじゃないでしょうか。どうぞ、おかげ頂かねばなりません。